鎌倉文士と文化人ら 上巻

型番 978-4897045429
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A5判 160ページ

〜鎌倉にこだわり、九十人〔上巻五十人・下巻四十人余〕の エピソード・住まい・恋・結婚・墓標などを記しました〜

明治22年(1889)6月16日、東京と軍港のある横須賀を結ぶ目的で、官設鉄道大船駅−横須賀駅の横須賀線開通時に、鎌倉駅が開業する。そして、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため「段葛」は寸断された。
ちなみに江之島電気鉄道路線(現・江ノ島電鉄線)は、明治43年(1910)11月4日に鎌倉方面へ延伸し、大町駅(現在は廃駅)−小町駅(鎌倉駅の前身にあたる、廃駅)間が開通し、これをもって全線開通する。
横須賀線鎌倉駅設置で東京からの便がよくなり、文学者らがこの頃から鎌倉へ訪れるようになる。加えて横須賀線の本数増や、複線化(大正13年)、東京−横須賀間の電化(大正14年)、北鎌倉駅の本駅開設(昭和5年)等もあって、京浜方面や横須賀軍港への通勤を可能にし、海軍軍人や、俗にいう別荘族などの定住化が促進され、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。
大正12年(1923)9月1日、関東大震災の発生。鎌倉にも大きな被害あったが、この大震災をきっかけとして、壊滅状態となった東京に比べれば遥かに被害の少なかった鎌倉と浦和(現在のさいたま市浦和区)に多くの文化人が居を移す時代が到来する。大正後期のこの時期を中心とした鎌倉と浦和の文化人を、それぞれに「鎌倉文士」・「浦和画家」と呼ぶようになる。
そして、昭和4年(1929)には鎌倉山分譲地の株主への土地分譲が開始された。これに伴う大船−江ノ島間の「自動車道」も完成し、翌年には大船−江ノ島間、鎌倉山−長谷間の「乗合自動車」が開業したという。
また、昭和11年(1936)1月には大船町に松竹の「大船撮影所」が竣工するなど鎌倉町とその周辺地域は、戸数や人口の増加のみならず、社会、文化両面で発展し、文学者や知識人、映画人・芸術家等の居住環境が次第に整えられていった。
続いて、「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれるようになる。それは、昭和14年(1939)11月3日に鎌倉町と腰越町が合併し、鎌倉市(第1次鎌倉市)が誕生した。その後、昭和23年(1948)1月1日に深沢村、同年6月1日に大船町を編入して、現在の鎌倉市となった
このような経緯から、明治25年(1892)文芸雑誌「文学界」同人の星野天知が鎌倉の山荘に暮らしていたことから、島崎藤村ら多くの文化人も集った。明治27年、円覚寺に参禅した若き夏目漱石は、その体験を「門」に描き、大正8年(1919)有島武郎は「或る女」の後篇を執筆するために、円覚寺の塔頭に滞在した。高浜虚子は明治43年(1910)から一家をあげて鎌倉に移り住み、幾度かの転居を経つつも半世紀近くを由比ガ浜で過ごした。大正には有島生馬らが鎌倉に移り住んできた。昭和に入り、東京の都市化につれ、風光のよい鎌倉へ多くの文学者が移り住むようになった。鎌倉は多くの文学者らに愛され、作品に登場し、鎌倉は文学都市として成熟するようになっていく。
ここでは、鎌倉にゆかりのある文学者らを紹介する。

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